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CL準々決勝(5)・・イタリア的リアリズムサッカーの復権?!・・まずACミラン対アヤックス(3-2)から・・(2003年4月25日、金曜日)

すご〜い! 歓喜と失望が行ったり来たりする(天国と地獄の間を行ったり来たりする)ギリギリのドラマ。

 ミランに二度もリードを許しながら、その度に追いついたアヤックス・・残り10分ほどを残して「2-2」・・これでオレたちが準決勝進出だ!(2-2だからアウェーゴール二倍ルールでアヤックスが勝ち進む!)・・ところがロスタイムに入った最後の瞬間に、交代出場のトマソンが決勝ゴールを挙げてしまう・・。

 その前日おこなわれたバルセロナ対ユーヴェントス戦も、延長後半に、10人になったユーヴェが、まさにワンチャンスのカウンターを決めて勝ち進むというドラマチックな結末だったわけですが、バルサ対ユーヴェの場合は「そのまま」終了していればPK戦になったのに対し、ミラン対アヤックス戦は、瞬間的に勝負の行方が180度方向転換するという「サドンデス状態」でしたから、ドラマ性がより際立ったというわけです。

 今回の準々決勝では、イタリア勢が絡んだ三つの対戦すべてが、傾向として同じようなゲーム内容になりました。ユーヴェントス対バルセロナ。インテル対バレンシア。そしてACミラン対アヤックス。イタリアのツボ(リアリズムサッカー)と対峙した、より進歩的な(?!)「サッカー発想」・・なんていう構図ですかね。

 イタリアチームの基本的な発想については、一昨日アップしたバルセロナ対ユーヴェントス戦レポートの冒頭部分も参照していただきたいのですが、まあ簡単にまとめれば、あくまでも「次のディフェンスでの組織」を意識した攻めを展開するイタリア・・ということになりますかね。

 ここでは、相手に攻め込まれている状態(自チームが全体的に下がっている状態=相手チームの多くが攻め上がってきている状態)からの一発カウンター攻撃という状況、セットプレーから最終勝負を仕掛けていく状況、はたまた、(相手にリードされていることで失うものが何も無くなり)もう何が何でもゴールを奪いにいかなければならなくなったという「ゲームの流れ的な状況」などは除くことにします(あくまでもイメージ的な分類ですが・・)。

 要は、これらの状況を除いた、組み立てから仕掛けていくケースだけにスポットを当てて、イタリアチームの基本的な「発想」を探ろうというわけです。

 さて、ミラン対アヤックス戦。そこでも、イタリア的な発想が明確に見て取れました。

 あくまでも、「次の爆発」の準備段階として、中盤でボールを「横へ、横へとキープ」するミラン。そして機を見計らい、「直線的」に爆発していく。ここでいう「機」のスタートラインの多くは、最前線プレーヤーが展開する「パスを呼び込む(要求する)フリーランニング」ということですかね。そして、人数をかけず、最前線のシェフチェンコとインザーギに、ルイ・コスタと「もう一人」が絡んだ最終勝負を仕掛けていくのです。

 直線的な仕掛けに絡んでいく「もう一人」ですが、彼は、両サイドと中央ゾーンから押し上げていきます。両サイドの場合は、サイドバックとサイドハーフがタテにポジションをチェンジする。だから次のディフェンスでは、そのサイドゾーンは確実にカバーされている。また中央ゾーンでも、ケースバイケースで、もう一人の選手が、タテのスペースへ突進していく。そのケースでは、ルイ・コスタを追い越していくというケースが目立ちます。もちろん、両サイドと中央ゾーンでの押し上げが「同時」に起きることはありません。あくまでも「そのうちの一人」というわけです。

 彼らの、組み立てをベースにした直線的な攻撃では、あくまでも「個」が中心。最終的な仕掛けシーンに絡んだ選手は、その時点で、例外なく(シュート、ラストスルーパス、ラストクロスをイメージした)最終勝負を挑んでいくのです。シェフチェンコしかり、インザーギしかり、はたまた押し上げた「もう一人の選手」しかり。

 要は、組み立てベースの攻撃では、人数をかけたコンビネーションを基盤にする仕掛けが本当に希だということです。もちろんその背景に、次のディフェンスでの「組織」をできる限り崩さないという基本的なチーム戦術的イメージがあることは言うまでもない(しつこくてスミマセン・・)。

 高い「個の能力」を備えた選手たちが、あくまでも、セキュアー(安全・確実)に「蜂の一刺し」攻撃を仕掛けていくイタリア勢。一発勝負には強いはずだ。

 あっと・・、相手にボールを奪われた直後の状況も、彼らにとっての「勝負所」だという視点を忘れてはならない。そこで(なるべく高い位置で)ボールを奪い返し、前へ重心をうつし気味になっている守備の組織が「開いた」ところを、素早く、直線的に突いていくというイメージも、チーム全体に深く浸透しています。だから、相手が「さて、組み立てだ・・」と、後方でボールを動かそうとしているときのミランのディフェンスには爆発的な勢いがある。フムフム・・。

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 さて、イタリア的リアリズムサッカーの復権(?!)というテーマです。

 いまヨーロッパでは、それに対して様々な「クリティックの応酬」があるとか。もちろんイタリアメディアは、こぞって「勝負にこだわりつづけるカテナチオの復権」を自画自賛するし、逆にスペインメディアは、「スペイン勢は、イタリアのずる賢さに負けた・・」とかの論評を繰り広げるといった具合。

 また、インテルを攻め切れなかったバレンシアのベニテス監督などは、「どのチームも、インテルのようなプレーをしたら、サッカーは(その美しさは?!)消えてなくなってしまう。インテルは、サッカーの終わりを象徴しているんだ・・」とまで酷評したとか(UEFAのオフィシャルサイト参照)。フムフム・・。

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 とにかく、「理想型は、美しく(見ていて面白く、楽しく、感動を誘い)、かつ勝負にも強いサッカー」というコンセプトに普遍性があることはサッカーの歴史が証明しています。私は、「GKを除き、基本ポジションなしのサッカーが理想」という表現をしますが、それも、「美しく強いサッカー」とか、「全員攻撃、全員守備サッカー」という古くからあるコンセプトの言い換えというわけです。

 とはいっても、不確実な要素が満載されていることで最終的には自由にプレーせざるを得ないサッカーだから、その理想型へすぐに到達できはずがない(さまざまな視点の「定義」も、時代に応じて変化するだろうから、理想型は、永遠に体現できない?!)。だから、理想型へ向かうプロセスのなかで、現場が様々な妥協をすることになる。それがチーム戦術(基本的な、攻め方とか守り方についての決まり事)とか、ゲーム戦術(対戦相手のサッカーを考慮に入れた対処的な決まり事)とか呼ばれるモノです。

 そして、その「妥協の内容」が、それぞれクラブが置かれている国民国家や地域の文化的背景、それぞれのクラブの伝統、それぞれのクラブが抱えている選手個々のチカラ、監督の考え方などなど、数え切れないほどのファクターによって微妙に違ってくるというわけです。

 そこで問われてくるのが、「規制と解放」という二つの相反する方向性に対するバランス感覚。「規制」とは、もちろん戦術のこと。そして「解放」されるのは、選手たちのクリエイティビティー(創造性)なんていう風に表現できますかネ。そのどちらに「振れ過ぎ」ても、様々な意味や現象を包含する「コト」は良い方向へは(発展方向へは)進んでいかないということです。

 あっと・・。もちろん、最高の守備意識を基盤にしたクリエイティビティーならば、ハナシは別ですがネ・・。

 例えばドイツ。そこでも、世界中に広まっている「強いけれど、つまらないサッカー」という評価に対し、現場も、一般の生活者も、また私自身も、(強がりを言いながらも)心の深層では、何らかのカタチで苛まれているのですよ。だからこそ彼らは(私も含めて)、美しく、強かった1972年ヨーロッパチャンピオンチームへ思いを馳せるというわけです。

 このことについては、雑誌のナンバーで発表した記事(私とクリストフ・ダウムの対談記事)を参照してください。前にも、どこかのコラムのなかでリンクを張りましたが・・。

 さて、イタリア的リアリズム。サッカーの歴史のなかで収斂されてきた「理想型イメージ」をベースにすれば、そこへ近づいていくための「バランス感覚」という視点で、たしかに彼らが展開する、より「規制方向」に振れた戦術サッカーは少しズレているという見方もできそうだ・・。

 歯切れの悪い締め方で申し訳ない。もう皆さんは、これまで様々なメディアで表明してきたように、私が、「イタリアのツボ」に畏敬の念を抱きながらも、彼らの、リアリズムを前面に押し出し過ぎるサッカーに対してシンパシーを抱いていないことはご存じのことと思いますので・・。

 ちょいと、難しく舌っ足らずな文章になってしまいました。この普遍的なテーマについては、また機会を改めて論を展開しようと思っていますので・・。




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