My Biography
- My Biography(60)_日常のエピソード(クリスマス)・・(2016年3月29日、火曜日)
- ■あっ、町が死んでいる・・
そのとき、本当に、そう感じた。
忘れもしない、それは、1976年の12月24日のことだった。そう、わたしがドイツへ留学した年のクリスマスイブだ。
当時わたしは、ドイツ語の習得に全エネルギーを注ぎ込んでいた。まあ、その当時の経緯については、以前のバイオグラフィーコラムをお読みいただければと思う。
また、ウリとも、2日くらい、何故だか連絡が取れなくなっていた。まあ、その理由は後から分かったのだけれど、そのこともあって、クナイペ(飲み屋)にも行っていない。
もちろん、ドイツ社会のクリスマス休暇がはじまることは知っていた。
学校やサッカークラブだけじゃなく、一般的な社会活動が止まることで、街中が少し閑散とすることくらいは想像できていたんだ。
でも、これほどまでとは・・。
まあ、20年、30年前の「日本の元旦」を思い浮かべていただけば、それに似た雰囲気ということで想像がつくでしょ。
でも、取り敢えず、食べ物のストックはあった。
まあ、食べ物とはいっても、以前も書いたように、スライスした硬いパンにバターを塗り、ハムやチーズを乗せて食べる程度のものだ。また、ビールやミネラルウォーターも、しっかりとストックしてあった。
そう、必要最低限の「サバイバルセット」。
とはいっても、コーヒーには少しこだわっていた。コーヒー豆にしても、なかなか良い(高い)モノを買いそろえてあったし、それをドリップで丁寧にいれていた。
コーヒーに(そこまで)こだわるようになったのには、ウリの影響もあった。
ウリは、もう何度も書いたように、東ドイツからの逃亡者だ。
当時の東ドイツでは高級品だったコーヒーは、おいそれとありつけるシロモノじゃなかったんだよ。
彼の父親は、郵便局のお偉方ではあったけれど、そんな彼の実家でも、コーヒーは特別な飲み物だったんだ。
そんなウリだから、西ドイツでの生活がはじまった当時から、とにかくコーヒーにはこだわりまくっていた。
厳選されたコーヒー豆を、自分で挽き、そしてサイフォンで落とす。
私も、(日本にいた当時から)コーヒーにはこだわる方ではあったけれど、ウリの影響で、懐具合とは相反するように、豆を厳選するようになったんだよ。
あっと、コーヒーのハナシじゃなかったっけ。
とにかく、町が「死んだ」クリスマスでも、そのドリップセットも含めて、数日間はサバイバル出来るだけの食料と飲料のストックはあった・・ということが言いたかっただけでした。
■異文化の「共生」を体感して・・
街中の「死んだ雰囲気」に圧倒され(不安感に包まれて!?)アパートへとって返した私は、「冷たい食事」を摂りながら気のエネルギーを充填し、再び街中へ繰り出すことにしたんだ。
でもそこは、本当に「死んで」いた。何せ、人を見掛けることがほとんどないのだから。
私は、街中をかなり歩き回った。でもホント、雰囲気的には、「猫の子一匹・・」ってな静寂が支配していたんだ。
しかし・・
そう、歩き回っているうちに、明かりがともっている一軒の店を見つけ出したんだよ。
それは、「インビス」と呼ばれるファーストフード店だった。でも、焼きソーセージとかフライドポテトなどを扱う「ドイツのインビス」ではなく、トルコ系だ。
そう、トルコの代表的なファーストフード、ケバブを提供するインビスだ。
下味をつけた肉を、積み重ねるように串刺しにして垂直に立て、その表面をオープンオーブンであぶり焼きにする。
そして、焼き上がった表面を、薄く、そぎ落とすようにスライスし、それをパンなどにはさんで食べるという肉料理である。
私は、温かい食事にありつけたことで、ものすごくハッピーな感覚に包まれていた。
そこで、ハタと考えた・・
そう、クリスマスだから、すべての店舗は、法律で閉店しなきゃいけないことになっているんじゃなかったっけ?
「まあ・・原則は営業できないことになっているけど、オレはモスレム(イスラム教徒)だからね・・当局から文句は言われるけれど、キリスト教以外の人たちのために・・まあ、オレの同胞たちのためにかな・・ドイツの役人も、見て見ぬふりをしてくれているんだよ・・」
ところで、そのトルコ人の店主。彼は、日本に対して深い畏敬の念を抱いていたっけ。
歴史的な背景(日露戦争に勝利したこと!?)も含め、彼が抱く、日本に対するシンパシーを訥々(とつとつ)と語りながら、私に対して気を遣ってくれるんだ。
それは、まったく動きのない街中での「温かい触れ合い」だった。心地よいことこの上ない。
だから私が、そこに根を生やしたように居座ってしまったのも自然な成り行きだった。
店主の方が、つづける。
「あっと・・正式な営業の許可を出してもらったというわけじゃないんだよ・・そんなことをしたら、ドイツ社会が黙っていないだろ・・だから、まあ大目に見
てもらっているっちゅうことかな・・ドイツ人は、他の宗教に対しても寛容なんだよ・・それは素晴らしいことだと思うよ・・」
その後も、店主のオッサンとハナシが弾んだ。
もちろんドイツ語での会話。
そこには、外国人である二人が、互いの母国ではないドイツ語でコミュニケーションしている・・っちゅう、とても興味深い「構図」があったんだ。
もちろん、話したいことを表現するのには、二人とも苦労した。でも、だからこそ(!?)、「触れ合いの内実」が深まっていることを実感してもいた。
もしかしたらその時、「コミュニケーションの本質は言葉にあらず・・」という真実を体感していたのかもしれない。
そして私は、「たしかにクラブでも、サッカーという共通言語を介することも含めて(!?)、とても深くまで人間的な関係を築くことが出来ていたよな・・」なんてコトにまで思いを馳せていた。
そう、最後は、相手を理解「したい」という誠実で前向きな姿勢も含めた「人間性」が問われると言うことなんだよ。
あっと・・
というわけで、結局、その「ケバブ・インビス」には、2時間ほども居座ってしまった。
そのあいだに何人か、トルコ人の常連客が来たけれど、彼らも自然にコミュニケーションの輪に入ってきたよね。そんなだから、ハナシが盛り上がらないはずがなかったというわけさ。
彼らは、「ガスト・アルバイター」と呼ばれる人たち。そう、出稼ぎ労働者だ。
彼らには、そのためだけのビザが支給される。当時は、トルコ、旧ユーゴスラビア、東ヨーロッパ諸国からの「ガスト・アルバイター」が多かった。
もちろん彼らが就いていたのは、ドイツ人がやりたくない「3K職種」がほとんどだ。それでも、稼ぎは、本国とは比べものにならないほど良いから、出稼ぎ希望者は後を絶たなかった。
そんなガスト・アルバイターの第2、第3世代の多くは、既にドイツ社会の一角を形成している。
だから、今のドイツ代表にも、トルコ、アルジェリア、旧ユーゴや東欧諸国からの移民の末裔が、社会にインテグレートされているというわけだ。
もちろんここじゃ、それが真のインテグレーション(Assimilation=社会的な同化!?)かどうかという錯綜した議論には、入っていかないよ。悪しからず。
ということで、留学した年の初体験クリスマスは、幸運に恵まれ、極端に寂しい思いをすることもなかったというハナシを聞いていただきたかったというわけだ。
へへっ・・
■それでも、次の年からはウリの家族に迎えられてクリスマスを祝った・・
もちろん26日を過ぎると、街中も徐々に息を吹き返していった。
またウリも、ケルンに戻ってきた。
「えっ!?・・オマエ、クリスマスは、まったく一人だったって!?・・それは知らなかった・・そういえば、オマエがどうするのか聞いておかなきゃとは思っていたんだよ・・」
ウリは、エッセンの叔母さんたちに頼まれ、クリスマスの一週間前から、彼らを色々なところへ連れて行ったり、雑用を助けなければならなかったということだった。
クリスマスの前から、彼の姿が見えなくなってしまうわけだ。
「そうか〜・・そりゃ、そうだよな・・てっきり、日本人のなかで何かやるのかもしれないなんて勝手に考えていたよ・・それに、サッカークラブのヤツ等からも、ケンジをクリスマスに招待しようかなんていうハナシも出ていたしな・・」
「そういえば、サッカークラブの何人かのチームメイトから、クリスマスはどうするのか?って聞かれたことはあったよ・・でも何も具体化しなかったし、日本人コミュニティーについては、こちらから願い下げだったこともあったからね・・」と、わたし。
「そうか〜・・それじゃ来年は、是非オレのファミリーのクリスマスに招待するよ・・」
「でも、オレはクリスチャンじゃないし、ファミリーのクリスマスパーティーじゃ、邪魔な存在になってしまうんじゃないのか?」
「何いってんだよ・・たしかにオレもカソリックではあるけれど、信仰心は?って問われたら、疑問符ばかりがアタマに浮かんでくるのさ・・だから、とにかく来年は・・」
「うん・・そうだね・・オレも、ドイツ人のクリスマスの過ごし方には興味があるし・・」
■そして、その次の年(1977年)のクリスマス・・
ウリのファミリーでは、親戚の多くが、ウリの母方の叔母さんが住んでいるマンションに集結するのが恒例になっていた。
どうして「そこ」に集結するのかって?
その叔母さん二人は、戦後、結婚することなく銀行員として一流バンクを勤め上げたんだ。
「そうなのよ・・もちろん私も結婚して子供が欲しかったけれど、とにかく、年頃のオトコが、あまりにも少なすぎたからネ・・みんな戦争にかり出され、戦死したり、シベリアに抑留されたり・・そりゃ、ヒドイ時代だったのよ・・」
テーア叔母さんが、遠くを見るように、当時のことを述懐していた。彼女は、戦後の厳しい時代のことを詳しく話して聞かせてくれた。
その頃には、私のドイツ語もなかり上達していたから、叔母さんたちのハナシも、十分に聞けるようになっていた。
そんな戦後の事情があったから、子供がいない(ウリの母方の)叔母さん二人にとって、ウリは、まさに自分たちの息子として、目の中に入れても痛くない存在だったんだ。
ウリは、体育大学を卒業した後には、ケルン総合大学の医学部へ転入したわけだけれど、スカラーシップ(奨学金)の他に、叔母さんたちからも、かなりの援助があったらしい。
まあウリは、そのことについて詳しく話したがらなかったけれど、そんな背景もあって、クリスマスには、いつも、叔母さんたちの手伝いをしていたというわけだ。
あっと・・その叔母さんのマンションに、ファミリーが集合するハナシだった。
そう、叔母さん二人は、とても裕福だったんだよ。そりゃ、そうだ。ドイツを代表する銀行で、役員寸前まで昇格したわけだし、子供もいなかったからね。
そんな二人が、一緒に生活していたというわけだ。そりゃ、マンションも含め、超一流の「生活空間」をクリエイトできるのも道理でしょ。
ということで、私も、その一流の生活環境を心から楽しませてもらったというわけだ。
クリスマスパーティーについては、全員が優しかったこと(それはウリに対する評価の証でもあるよね!)、そして親戚のなかに、ものすごい美人の従姉妹が何人もいたこともあって、最初から最後まで、心から楽しめていた。
でも、ちょっと飲み過ぎたことで、最後はソファの上で寝てしまったらしい。
私は、ホントによく酔いつぶれてソファで寝てしまうよな。
そう、ドイツ留学の数日前に、恩師、鈴木中先生に、湘南高校の先輩ロッキー山田さんに引き合わせようと、六本木にあった「シュガーボーイ」へ連れて行かれたときのことだ。
私は、そこでも酔いつぶれてソファで寝てしまったよね(当時のバイオグラフィー文章をご参照アレ)。へへっ・・。
あっと・・、ウリの叔母さんが主催するクリスマスパーティーのハナシだった。
翌朝ウリに叩き起こされたとき、ヤツがこんなことを言うんだよ。
「オマエさ〜・・クリスティアーネに気に入られていたんだぜ・・」
クリスティアーネは、従姉妹のなかでも、群を抜いた美人だった。背も高く、彼女も、私が190センチもある大男のアジア人ということで、パーティー中、私のところにベッタリだったんだ。
でも、だらしのない私は、酔いつぶれて寝てしまうという体たらくだった。
翌朝(たしか26日の午前中!?)というか、もう昼前になっていたけれど、ウリに叩き起こされ、すでにクリスティアーネが自宅へ戻ってしまったと聞かされたんだよ。
ちょっと落胆。でも、まあ、来年もあるから・・と期待を募らせたモノだった。
でも結局、クリスティアーネとは、それ以来会っていない。
もう40年ちかく前のハナシだから、そのクリスティアーネも、カッコイイおばあさんになっているんだろうな。
今度、ウリに彼女の消息を聞いてみよう。
■あっと・・クリスマス・・
それを祝う本来の目的は、とても宗教的なモノなんだろうけれど、実際には、家族が集う機会を神様がお与えになった・・というふうに理解されている・・らしい。
そう、日本でのお盆や正月に、かなり近いニュアンスなんだ。
また今では、かなり雰囲気が変わってきているということを聞くこともある。でも、ドイツのことだから、原則的な「流れ」は、そのままだとは思うけれど・・。
そう、基本的に保守的な雰囲気が支配するドイツのことだから、まだまだクリスマスの街中には、「伝統的な静寂」が支配しているはずだと思うわけだ。
そして、宗教の違う住民は、自分たちの日常を楽しむ。フムフム・・
こんど機会を見つけて、カーニバルだけじゃなく、クリスマスの「今」も体感しにいこう。
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これまでの「My Biography」については、「こちら」を見てください。
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重ねて、東北地方太平洋沖地震によって亡くなられた方々のご冥福を祈ると同時に、被災された方々に、心からのお見舞いを申し上げます。 この件については「このコラム」も参照して下さい。
追伸:わたしは”Football saves Japan”の宣言に賛同します(写真は、宇都宮徹壱さんの作品です)。
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ところで、湯浅健二の新刊。三年ぶりに上梓した自信作です。いままで書いた戦術本の集大成ってな位置づけですかね。
タイトルは『サッ カー戦術の仕組み』。出版は池田書店。この新刊については「こちら」をご参照ください。また、スポーツジャーナリストの二宮清純さんが、2010年5月26日付け日経新聞の夕刊 で、とても素敵な書評を載せてくれました。それは「こちら」です。また、日経の「五月の書評ランキング」でも第二位にランクされました。
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