My Biography


My Biography(18)_さて、本格的にドイツでの留学生活がはじまった・・(2014年1月1日、水曜日)

■スムーズに整っていった日常ベース・・

フランク通り、ハウスナンバー「11」。

そこが、ドイツ留学生活での最初の拠点になった。

ベッドや戸棚などの家具が備え付けられた「屋根裏部屋」だ。もちろん台所も備わっている。また、以前のコラムで書いたように、寝具は、「聖園(みその)」に貸していただいた。本当に、あの方たちには、感謝の言葉しかない。

特に、聖園(みその)のシスター、デレチアさん。

甘やかすことなく、厳しい言葉も投げかけてくるけれど、肝心なところでは、人間的な深い優しさを「感じさせて」くれる。だから、ご意見を素直に、そして真剣に受け容れられる。

湯浅ファミリーとともに、私のドイツでの留学生活の第一段階は、彼らのお陰で、物心ともに、信じられないくらいスムーズに、そして穏やかに進んでいった。

■学生登録・・

最初わたしは、ケルン体育大学ではなく、ケルン総合大学への入学を申請した。

どちらにしても、外国人はドイツ語試験に合格しなければならないし、総合大学が外国人のために用意しているドイツ語講座のほうが(体育大学のそれよりも!)、格段にレベルが高いと聞いていたこともあった。

その情報は、青山にあるドイツ文化センターの図書館に置いてあったドイツ留学の「ノウハウ本」から仕入れた。

だから、最初に学生登録するのは、ケルン総合大学と決めていたのだ。

まずそこでドイツ語をミッチリ勉強し、外国人留学生が通らなければならないドイツ語試験に合格する。そうすれば、体育大学のほうは無試験で入学できる。

私は、哲学や社会学にも興味があったし、ドイツへ行くのだから、サッカーだけでなく、できるかぎり多くの分野や人々に接したい、知識や知恵を吸収したい、それが希望だったから、最終的には、総合大学と体育大学の両方に学生登録することを目標にしていたのである。

ということで、学生登録をするために(要は、学生証を作ってもらうために!)、まずケルン総合大学の外国人課を訪問することにした。

この学生証は、就学(滞在)ビザを取得するだけじゃなく、銀行口座を開設したり、保険に加入したり、交通機関の定期を購入したり、はたまた街中でポリスに職務質問されたときの身分証明など、ドイツでの社会生活では、絶対的なパスボートになる。

当時は「まだ」学生は、社会的なエリートとして認知されていた。それほど、大学への進学は「狭き門」だったのである。

とはいっても、日本のような入学試験があるわけじゃない。

基本的には、ギムナジウムと呼ばれる普通高校の卒業試験に合格すれば、誰でも大学へ進学できるというシステムなのだ。

ただ、どの大学で、どの科目を専攻するのかというテーマでは、このギムナジウムの卒業試験にあたる「アビトゥーア」の成績が、大きく影響する。

当時も、一番人気は「医学部」だった。

でも、その学籍をもらうためには、「アビトゥーア」で、かなり良い成績を残さなければならない。

「アビトゥーア」の成績が足りない場合は、学籍が与えられるまで「待つ」しかない。医学部で、「すぐ」に勉強をはじめられる生徒は、「アビトゥーア」で、抜群の成績を収めた者だけなのだ。

まあ、平たく言えば、その「アビトゥーア」と、高校卒業までの最後の2年間におけるテスト結果が、日本の大学入試に当たるということだろうか。

そんな基本情報についても、「留学ノウハウ本」で調べ上げた。とにかく、何はさておき、学生証だけは取得しなければ、留学のスタートラインにさえ着けない。

もっと言えば、特にドイツという(権威!?)社会では、学生という「社会的ステータス」を獲得することに、特段の意義があるという背景もあったのだ。

■外国人課・・

ケルン総合大学の外国人課は、まったく特徴のない普通のマンションの一階にあった。

というよりも、ケルン総合大学のキャンパス自体が、一般的な町並みの一角に、分散して「組み込まれている」ってな感じなのだ。

もちろん大きな講堂や大学病院、メンザと呼ばれる巨大な学生食堂、はたまたスポーツイベント用の小型スタジアムなど、いくつかの大きな建物や施設などはあるけれど、その他は、一般のマンションやアパートを効率的に活用しているという雰囲気なのである。

だから、外国人課だけではなく、大学の一般マネージメント事務局なども、普通の町並みのなかに溶け込んでいるというわけだ。

そんなところにも、ヨーロッパ(ドイツ)の長〜い伝統を感じたりする。

ところで、総合大学のロケーションだけれど、そこは、私の生活拠点であるフランク通りから歩いて行ける距離にある。

またフランク通りは、バルバロッサプラッツ(バルバロッサ・スクウェア)や、ノイマルクト(ニュー・マーケット)広場など、町の中心地に隣接している。

その意味でも、湯浅さんと聖園(みその)の皆さんには、いくら感謝しても足りない。

もし、郊外のアパートだったら、街中に出るためにも、大学へ通うためにも、常にシュトラッセンバーン(路面電車)やバスを乗り継いでいかなければならなかったわけだから。

あっと、ちょっとハナシが逸れた。

ということで、外国人課。

そこを探し出すのは簡単だった。もちろん一般のドイツ人学生は知らないだろうから、外国人学生とおぼしき若者を探して声をかけたのだ。

最初の中東系の学生には、うまくハナシが通じなかったけれど、2人目のアジア人の学生は、とても親切に、外国人課への行き方を教えてくれた。

彼は、キムさんという。会話は、もちろん英語だ。

「スミマセン・・日本人の方ですか?・・エッ!?・・あっ、韓国の方ですか・・それは失礼しました・・私は日本人なのですが(名前も名乗った)・・実は、ケルンに来てまだ数日ということで、学生登録をするために外国人課へ行かなければならないんですよ・・」

「あ〜、外国人課ね・・それは、すぐそこですよ・・でも、分かりにくいだろうから、一緒に行ってあげましょう・・何せ、外からは、一般の住居にしか見えませんからね・・」

キムさんは、とても親切に、外国人課まで連れて行ってくれた。

「ボクは2年前から留学しているんだけれど、それ以来、外国人課には、いろいろとお世話になっているんだよ・・アパートを紹介してもらったり、それ以外に も、色々な相談にも乗ってもらっているんだ・・外国人課には女性の職員が多いけれど、彼女たちは、外国人に対する思い込みが、男よりも比較的薄いというこ ともあって、うまく人間関係を作れるからね・・」

キムさんは、30歳くらいだったと思う。韓国の大学を卒業し、何年か仕事をしてからドイツへ留学してきたということだった。

そのキムさんの発言で、ちょっと気になるところがあったから聞いた。

「いまのキムさんの発言ですが、ドイツの男性は、外国人に対して何らかの思い込みや偏見が強いということですか?」

「そうなんだよ・・でも女性は、一般的に男性よりもリベラルだし柔軟だから、色々な意味で話しやすいと思うんだ・・特に、大学で働いている人たちはインテリだしね・・」

そんなキムさんの発言に、ちょっと考え込まされたっけ。

・・たぶんオレも、ドイツ社会に入り込んでいくなかで、ドイツ人のネガポジの本音が見えてくるはずだ・・それにオレの専門は、本音が飛び交うサッカーだぜ・・そこでのパーソナリティーのぶつかり合いは、一般社会の比じゃないだろうしサ・・

・・カルチャーショックも含めて、オレは、ドイツ人のことを、どのように認識していくんだろう・・とても興味がある・・

そんなことに、考えをめぐらせたものだ。

あっと・・キムさん。

そのときは、外国人課の前で別れたけれど、その後も何度か、キャンパスやメンザ(学食)で偶然に会った。その都度、色々な話題で盛り上がったっけ。

キムさんとの会話だけれど、徐々に、ドイツ語の方が多くなっていったと思う。そして話題も、ドイツでの生活や文化にまで及ぶようになっていった。

彼は、社会学を専攻していたと覚えている。人間的にも、知識や知恵にしても、尊敬に値する人物だった。

いまキムさんは、どこで、何をしているのだろう・・

あっ・・またハナシが明後日(アサッテ)の方向へいきそうになった。

ということで外国人課。

必要な書類は、大学からの正式な入学許可のレターも含めて、ほとんど揃っていた。

まあ、それでも、顔写真や、日本で取得した戸籍や住民票などを、東京のドイツ大使館で翻訳してもらった正式書類など(大枚をはたいて作成した、ドイツ大使館のお墨付きの書類だぜ!)を取りに、アパートと外国人課を往復しなければいけなかった。

そして、何度目かの訪問で、めでたく、ケルン総合大学の学生証を取得できたというわけだ。

■さて、社会生活の「パスポート」が手に入った・・

前述したように、学生証は、様々な効用をもたらしてくれた。

私のアパートの管理人の女性なんか、学生証を見たとき、姿勢を正して、「社会のために頑張ってよ!」と期待を込めて手を握りしめてくれたものだ。

そう、その当時まだ学生は、高い「社会的ステータス」として認知されていたのである。

そして、外国人登録をしたり、電車やバスの定期を購入したり(まあ総合大学は徒歩で行けたけれど、後に入学するケルン体育大学やサッカークラブへ通うとき に必要になった)、学生食堂のチケットを購入したり、学生用の、とても安価で有利な健康・傷害(障害)保険に加入したりと、一気に生活ベースが整っていっ た。

とはいっても、官庁(市役所の外人局)まで出向いて申請しなければならない外国人登録の作業は、そんなに簡単な作業ではなかった。

前にも書いたけれど、就学ビザは、基本的に、渡独する前までに取得していなければならないのだ。

そのこともあって、日本の大学の卒業証書、成績表だけではなく、ドイツに住む何人かの方々に「保証人」になってもらうとか、とにかく多くの書類を揃えなければならなかった。

もちろん、必死だ。

だから、面倒くさいなんていう感情とは無縁。まさに全力で、書類作成に奔走した。

■あれほど必死に「何か」に取り組んだ経験はなかった・・

そう、就学ビザ申請のための書類集めだけじゃなく(日本から書類を取り寄せ、それをドイツ語に翻訳して原本還付=日本語とドイツ語が一致することの証明= してもらう作業も含めてだよ!)、ケルン総合大学が主催する、外国人学生のためのドイツ語講座でも、まさに必死にドイツ語を勉強した。

後述するけれど、ドイツ語の習得だけじゃなく、夕方からは、サッカークラブでのトレーニングにも取り組んでいた。

最初にトライしたサッカークラブだけれど、それは、ケルンを代表するプロクラブである「1.FCケルン」の成人アマチュアチームだった。まあ、今から考えたら、まさにそれは「無謀なチャレンジ」だったのかもしれないけれどサ・・

まあ、ドイツ語とサッカーについては、ハナシが長くなるから、回を改めることにしよう。

ということで、今回のコラムは、あれほど必死に「何か」に取り組んだことはなかった・・というテーマで締めようと思う。

もちろん、武蔵工業大学での卒業研究と、「陸送」のアルバイトには、本当に全力で取り組んではいたけれど、基本的にそれは、大学の卒業とカネを稼ぐための「ルーチンワーク」だったからね。

要は、やらなければならないことが明確に「決められていた」ということ。

そりゃ、そうだ。

卒業研究は、教授の指示にしたがって実験を行い、その結果を(これまた教授の指導のもと)卒論にまとめるという型にはまった作業だったし、陸送は、目的地までクルマを運転して届けるという単純再生産労働だったわけだから。

それに対して、ドイツ留学の初期に取り組んだ「やらなければならない様々なコト」は、ドイツ語の習得にしても、サッカーにしても、その全てが、自らが主体になって積極的に推し進めなければならない課題だったんだ。

自分自身で目標を立て、それを達成するために、自分なりに工夫し、やる気を喚起しつづける。そこには、既定路線的な「行動の枠組み」なんていうモノは、まったく存在しなかった。

だから、主体的に全力を尽くさなければならなかった。そして、その結果に対する責任は、自分一人が負う。

逆に言えば、もし成果を出せれば、それは、私一人のモノだ。

もちろん、湯浅さんファミリーや聖園(みその)の皆さんのご助力には心から感謝しているけれど、ドイツ語の習得やサッカーに関しては、彼らの助けは請えない。

そんな「自分主体の行動メカニズム」については、湯浅さん(フジローさん!?)も聖園(みその)のシスター、デレチアさんも、完璧に理解していた。

だからこそ、励ましてはくれるけれど、弱音などにはまったく耳を貸してくれなかった。

本当に、今でも、あの方たちには、心から感謝している。

そんな、自分が主体になって工夫し、新しいことにチャレンジしながら、自らの進む道を「一人で切り拓いて」いくというプロセスでは、「意志」の大切さを学んだ。

自分がやりたいコトは、明確だったし、それに向かって無我夢中で頑張るしかなかった。そしてだからこそ、言葉では知っていた「あるコンセプト」の正しさを体感できた。

・・意志さえあれば、おのずと「道」は見えてくる・・

そして私は、サッカーについて、こんな(コンセプト)表現も開発した。

・・自由なサッカーでは、(主体的な)セルフモティベーション能力を磨くことが大切だ・・

(つづく)

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これまでの「My Biography」については、「こちら」を見てください。

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 重ねて、東北地方太平洋沖地震によって亡くなられた方々のご冥福を祈ると同時に、被災された方々に、心からのお見舞いを申し上げます。 この件については「このコラム」も参照して下さい。

 追伸:わたしは”Football saves Japan”の宣言に賛同します(写真は、宇都宮徹壱さんの作品です)。

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 ところで、湯浅健二の新刊。三年ぶりに上梓した自信作です。いままで書いた戦術本の集大成ってな位置づけですかね。

 タイトルは『サッ カー戦術の仕組み』。出版は池田書店。この新刊については「こちら」をご参照ください。また、スポーツジャーナリストの二宮清純さんが、2010年5月26日付け日経新聞の夕刊 で、とても素敵な書評を載せてくれました。それは「こちら」です。また、日経の「五月の書評ランキング」でも第二位にランクされました。

 





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