My Biography


My Biography(10)__ドーム、そしてケルンでの最初の夜・・(2013年11月6日、水曜日)

■ドームに迎えられてケルン到着・・

ケルン市内に入った電車が、ゆっくりと、市の中心にある大聖堂へ近づいていく。

ケルン中央駅に隣接してそびえ立つ、高さ157メートルあまりの大聖堂。人々に「ドーム」と呼ばれ、ケルンのシンボルとして親しまれている。

ゴチック様式の建築物としては世界最大の聖堂ということだが、いまでは(1996年)ユネスコの世界遺産にも登録されている。

私は、ドームを見るのは初めてではなかった。その2年前のヨーロッパ旅行で、何度もケルンを訪れたことがあるのだ。それでも、何度見ても、壮観だ。

もちろん、何度かてっぺんまで登ったことがある。

その螺旋階段。

途中の狭い部分では、登る人と下る人がすれ違うのに苦労する。特に、腹に脂がのったドイツ人と行き交うのは大変だ。私はスリムだからいいけれど、周りでは、「脂」同士が、すれ違うのに、とても苦労している。そんな光景もまた、壮観だ。

登り切ったところには、見たこともないほど大きな釣り鐘がある。もちろん、その鐘を鳴らすのは、人がいないときに限られる。でも、その前に立つと、その圧倒的な雷響を聞きたくなってくる。

そして、ドームの頂上。そこは、まさに絶景だ。(当時の・・)ケルンには高層建築物が少ないので、町全体が見わたせる。

ケルンの町を取り囲むように整備されている「市の森」のなかに、わたしが学んだケルン国立体育大学があり、その敷地の端っこに、細長くそびえ立つ学生寮がある。

この学生寮には、思い出が深い。一時期そこに住んだことがあるのだが、多くの友人たちとのディスカッションが盛り上がったモノだ。

留学する二年前、大学二年生の夏休みにドイツを旅したときも、ケルンを拠点にして動きまわっていた。だから、帰ってくるたびにドームと、その学生寮に出迎えられ、ホッと一息ついたものだった。

ただ、「そのとき」は、状況がまったく違った。

これから、ケルンでの生活をゼロから築き上げていかなければならないのだ。その思いが、重くのしかかっていた。

フ〜〜・・だらしない。

■ドーム石材の「表面変化」が、公害の象徴になる・・

ところで、ケルンのドーム。荘厳だけれど、その表面は、とても汚れている。いや、真っ黒といってもいいほどだ。

聞くところによると、ドームに使われた石材は、ドイツ最南端にある、世界に誇る超有名なノイシュヴァンシュタイン城のモノと、切り出した場所も、時期も同じだという。

でも、「あちら」は、いまでも白亜のメルヘン・キャッスル。それに対してケルンドームは、薄汚れたダーティー・ドーム。この違いって・・!?

ドイツを旅行する人ならば、一度は訪れてみたいと思うに違いない「ロマンティック街道」。その終点。スイス国境の町フュッセンに、そのメルヘン・キャッスル、ノイシュヴァンシュタイン城がある。

ドイツ旅行のパンフレットには必ずといっていいほど、美しいノイシュヴァンシュタイン城の写真が載せられているから、誰もが一度は目にしたことがあるはずだ。

アルプスがはじまる切り立った山の中腹にそびえ立つ、まるでおとぎ話に出てきそうな、真っ白で、本当にメルヘンチツクな古城である。

その城に使われた石と、ケルンのドーム建設に使われた石が同じだというのだ。本当なのだろうか??

今でも真っ白な威容を誇るノイシュヴァンシュタイン城。それに対し、薄汚れたケルン・ドーム。

そのコントラストは、工場や自動車排気ガスなどによって汚染がすすむ都市大気公害の象徴として、今でもよく引き合いに出されるのである。

■ケルン中央駅・・ウシとの別れ・・

列車がゆっくりと、ケルン中央駅の「かまぼこドーム」に入っていく。

フランクフルト中央駅と同じように暗い。

もう夜の十時を過ぎていたから、ようやくあたりも暗くなってきていたのだけれど、そのこともあって、ケルン中央駅が、まるで洞穴のように感じられるのだ。

「それじゃ、元気で」

ウシに別れを告げた。彼女は、そこからまだ数十キロ北にあるデュイスブルクまでいく。

でも、カッコよくバイバイと言ったまではよかったけれど、重い荷物が多いから、車内のコンパートメントから出口まで、狭い通路を移動するのは大変だ。

結局、ウシに、列車の出口まで手伝ってもらうことになってしまった。ちょっとバツが悪い。

でもそのとき、「彼女と、カッコ良く別れたい・・」などといった心のなかの「格好つけストーリー」をフッ切らざるを得なくなったことで(!?)、何となく、ウシとの心の距離が縮まった・・と、感じた。

そんな不思議な「感覚的変化」については、彼女も、敏感に共有していたらしい。

分かれるとき、心の底から「ニコッ」と微笑んでくれた(・・と感じた!?)。そして最後は、心からのハグで別れを惜しむことも出来た。

それは、とても清々(すがすが)しく、心が和(なご)んだ瞬間だった。

私は、そこでもまた、(シュガーボーイのときのように!?)自分に素直になることの大事さを体感していたのかもしれない。もちろんそのときは、「そこ」まで考えが及ばなかったけれど・・

■湯浅さんのこと・・そしてホテルへ・・

ということでプラットフォームに降り立った。暗い、暗い。さてこれからどうしよう・・

だらしがないこと、この上ないのだけれど、暗いプラットフォームを出口へ向かって歩きながら、何となく気持ちが沈んでいった。

・・とにかく、何をするにも、もう遅すぎる・・今日はこのままホテルに泊まって朝を待つしかないよな・・湯浅さんに連絡を取るのは明日にしよう・・今日は、もう遅すぎる・・

えっ!? 湯浅さん・・!? それって自分のことじゃないのかって!?

いや、同姓だけれど、まったくの別人。それじゃ、いったい誰なんだ、その人は??

そうなんだよ・・

誰の助けも借りずに、自分の力だけで留学する・・なんて、カッコつけてはいたけれど、実は、ケルンに到着したときだけは、初期のヘルプとして、ある「ツテ」を頼ることにしたんだ。

その、ケルンに到着した最初のタイミングでコンタクトを取ることに決めていた方は、大学の同級生だった望月から紹介されていた。それは、彼のいとこで、ケルン音楽大学で声楽を学ぶ、私と同姓の湯浅さんという方だったのだ。

その湯浅さんは、一家でケルンに来ていると聞いていた。まだ子供は小さいだろうから、夜の十時を過ぎてしまったタイミングでは、電話は遅すぎるし、困って、人の家に「転がり込む」というのも本意じゃなかったんだ。

とにかく朝を待って電話を入れることにしよう・・

そのときは(心理的な)疲れがピークに達していたし、それ以上、なにか行動を起こすエネルギーなど残っていなかった。そんな自分の姿に、ちょっと落ちこんだ。

そしてホテル探し。観光案内所は既に閉まっていたし、結局、選んだホテルは、駅ビルのなかに入っていた「バーンホフ・ホテル」だった。

バーンホフは駅のことだから、日本語でいえば「ステーション・ホテル」ということになる。

パッとしない地味なロビーにある地味なフロントで、地味な雰囲気の男性フロント係と、地味な英語で話すことになった。

「今夜、泊まれる部屋はありますか?」

「ありますよ・・80マルクです」と、素っ気ない。

値段は高いし、そのフロント係に笑顔がないからだろうか、またまた気持ちが、どんどんと暗く落ちこんでいく。フ〜〜ッ・・

チェックインを済ませ、部屋へ向かうが、そこには、荷物を運んでくれるようなフロア担当の方などいない。

ステーションホテルということで、要は、「寝るだけの客」がほとんどということなのかもしれない。それに、もしかしたらそのホテルは、西ドイツの国鉄(当 時の鉄道は日本と同様に国営だった)と一緒に経営されているのかもしれない。ということは、このフロント係の方は公務員ということになる。

それだったら、まったく営業感覚がないのも分かる。フ〜〜ッ・・

ということで、やっとの思いで2階にある客室に荷物を運び込んだのだけれど、1階でエレベーターに乗るとき、ハッと思い出した。

・・そうそう、ドイツじゃ、日本の1階が「地階」と呼ばれているんだっけ・・ということは、2階は、日本の3階に当たるんだよな・・

部屋は、ロビーと同様に、パッとしない地味〜なインテリアだ。

まあ寝るだけだし、重たい荷物を持ち歩いてホテル探しもないだろうと、そのホテルに決めたのだけれど、こんな暗い雰囲気のなかで、すぐに寝つけるとは思えない。

案の定、疲れすぎていたこともあって(!?)目がパッチリと冴えわたっている。昨夜はモスクワの「牢獄」、今日は、これ以上ないと思えるほど暗〜い雰囲気のステーションホテル。

とにかくその時は、心身ともにダウン状態だったから、簡単に寝付けないだけではなくて、大学の入学手続きのことや、住む場所を探すことなど、どんどんと「重たい思い」が押し寄せ、止まらなくなってしまった。

もちろん、ここは気分を変えなければ・・と、ことさらに楽しかったことを思いだそうとしたり、楽しいに違いないこれからのドイツ留学生活のことをイメージ しようとした。でもアタマに浮かんでくるのは、大学事務局での登録のこと、留学生が通らなければならないドイツ語の語学試験のこと・・等など、気が滅入る ことばかりだった。

そんな状態じゃ、寝入ることなんて出来るはずがない。さて、どうしようか・・

■ホテルのバーで・・

仕方なく、1階のロビーに隣接するバーでビールを一杯ひっかけることにした。

カウンター席と、いくつかのテーブル席が設(しつら)えてあるだけの簡素なバー(後に、それがクナイペと呼ばれる典型的なドイツの飲み屋だったことを知った)。

そこに入っていったとき、その暗〜い雰囲気に、またしても「このホテルは絶対に国営だ・・」と確信したっけ。

でもそこは、夜中過ぎまでやっていたから、本当は個人経営だったのかもしれない。今となっては確かめようもないけれど・・

「アイン・ビア・ビッテ」

ビールをください・・。カウンター席に座り、そう注文した。

その二年前のドイツ旅行で慣れ親しんだ、私ができる数少ないドイツ語の一つだ。

私の方を向いたバーテンの女性が、何かドイツ語で聞き返してきた。でも私には、彼女が何を言ったのか分からない。

そのとき、ハッと気が付いた。そうか・・、彼女は、どの種類のビールが欲しいのかを聞き返してきたに違いない。

「ピルツ・ビッテ」

彼女は、私の言葉にまったく反応せず、ピルツ用の(ブランデーグラスのような丸い形の)グラスにビールを注ぎはじめた。

私は、ケルンの地ビールである「ケルシュ」よりも、上品な味の「ピルツ」が気に入っていた。ちなみに「ビッテ」とは、英語でプリーズのこと。忘れてはいけない万能ワードである。

ピルツの注ぎ方は独特だ。

まず、勢いよく注ぐことで意図的に「泡」を出し、そして、その泡が「収まる」のを待って、二度目、三度目と注ぎ足していくのだ。時間がかかる。でも、それがいい。

出来上がったグラスには、ほどよくアワが乗っているけれど(そこにコインが乗るくらい締まったアワでなければならない!)、でもビール自体からは、ある程 度「ガス」が抜けているから、ビール本来の味を、より深く楽しむことができる。またガスが抜けているから、腹が張ることもない。

私は、そんなピルツが好きだ。あっと・・小麦麦芽をより多く使用することで醸造した白ビール、ヴァイツェンビアもお気に入りだけれど・・

あっと・・ということでピルツ。最初の一杯は、一気に飲みほしたっけ。

様々なプレッシャーに苛(さいな)まれていたからなんだろうか、喉がカラカラに渇いていたのだ。冷たい液体が、一気に身体のなかを駆けめぐっていく。美味しかった。

でも二杯目は、ゆっくりと、バー(クナイペ)のなかを観察しながら飲むことにした。それにしても、アルコールのまわりが早い。そういえば、夕食は抜きになってしまったんだっけ。

ところで、私のとなりに座っていた中年紳士。

白の開襟シャツに、紺色の地味なスラックスという出で立ちだ。また髪も、キチンと七三に分け、ブラウンの濃い口ひげをたくわえてパイプをくゆらせている。そして、巨大なビールっ腹。

スラックスのベルトは、その腹が、足許に「ドスンッ!」と落ちてしまわないように締めている(ベルトで支えている!?)ってな感じ。

どう見たって、「人生をとことん楽しむメンタリティーの人々」とは対極にある、四角四面の保守の雰囲気じゃないか。

そう、やっぱりドイツは「北の国」なんだよ。

一生懸命に仕事をすることで「生きる糧」を蓄え、それを計画的に使うことでサバイバルする。

そりゃ、他の(南方面の!?)生活文化(メンタリティー)と一線を(それ以上の違いを!?)画するのも当然だよな。

そしてドイツ人は、こんなふうに揶揄されるんだ。

・・ドイツ人は生きるために仕事をする・・それに対して我々は、人生を楽しむために仕事をするんだ・・

その中年紳士を見ながら、そんなことにも思いをめぐらせていたっけ。

その中年紳士は、たまにバーテンダーの女性と言葉を交わしながら、ひとりでビールを飲んでいる。その向こう側には、二人組の、これもまた中年紳士が座り、何やら話し込んでいる。

その、眉根にシワよせる表情から、彼らが、かなり難しいハナシをしているように見えた。

その頃の私は、ドイツ人が話し込んでいると、何となく、難しい哲学を論じているに違いないと思い込んでしまう傾向があった。

哲学の国ドイツ。私の憧れであり、だからこその思いこみだった。

最初のころは、ドイツ人の眉根のタテジワに、妙に強い印象を受けていたのだ。だから、ドイツ人が話し込んでいると、「そうか〜・・これが哲学の国ドイツの雰囲気なんだ〜・・」などと、ワケも分からずに感心したものなのである。

でも、いま考えてみれば、実際は、「あのパーティーで知り合った彼女がヨ〜〜・・」ってなハナシだったのかもしれない・・なんて思えてくる。

知らぬが仏・・ってなものだ。

三杯目を飲み終わったところで、ベッドへ戻ることにした。

もう夜中の二時をすぎている。客は、私と、さっきの「ビールっ腹」の中年紳士だけになってしまっていた。そのおじさんとバーテンダーの彼女に会釈してバーを出た。

何故、会釈したのか分からないけれど、とにかく目が合ったからね。

欧米では、目が合ったら、決して無視してはいけないんだよ。

日本じゃ、目をそらしてしまうことも多いのだろうけれど、欧米では、それは、とても大事なコミュニケーションのキッカケだし、彼らは、そういう教育を受けているからね。

目は口ほどにものを言う・・

彼らは、人と会話をするときに、その人の目を見て話すことの大事さを教えられているんですよ。まあ、その「効果」については、体感するしかないけれどネ。フムフム・・

さて明日からだ。

(つづく)

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これまでの「My Biography」については、「こちら」を見てください。

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 重ねて、東北地方太平洋沖地震によって亡くなられた方々のご冥福を祈ると同時に、被災された方々に、心からのお見舞いを申し上げます。 この件については「このコラム」も参照して下さい。

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