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2006_ワールドカップ日記・・「ミス」が内包する本質的な意味・・(東京新聞に2006年6月10日から7月10日まで隔日で連載したコラムから)・・(2006年7月17日、月曜日)

今日は、6月18日の日本対クロアチアから題材をピックアップしたコラムを紹介します。テーマは、「ミス」が内包する本質的な意味・・。

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 「よし、いった!」。クロアチア戦、前半18分のことだ。右サイドを駆け上がった加地が、戻り気味のグラウンダークロスを送り込み、それが、走り込んできた小笠原にピタリと合ったのだ。ただ直後のシーンは、我々の期待とはかけ離れたものだった。全力で追いかけてきたクロアチア選手(たぶん2番のシュルナ)が、うまく身体を寄せて小笠原のシュートを阻止してしまったのだ。

 ボールがないところでの素晴らしいディフェンス。日本のチャンスが潰されたことに舌打ちしながらも、その守備に対しても惜しみない拍手をおくっていた。「そう、これこそが、ミスの体感を積み重ねることでのみ出てくるオートマチックな勝負プレーなんだよな」。

 クロアチアも含む世界のフットボールネーションでは、子供のころから、ミスと自己の責任を徹底して意識させる。決して妥協することなく、犯したミスと、その意味を自覚させるのである。その指摘は、ボール絡みのプレーよりもむしろ、攻守にわたるボールがないところでのプレーに対してよりシビアに行われる。

 ミスが出るのは当然のサッカーだからこそ、ミスの意味を深く理解することが決定的に大事なのだ。そして、身体が火照るような体感を積み重ねることで、逆に、ミスを恐れないリスクチャレンジ姿勢も高揚する。そんな、本当の意味で「ミスと共存」する積極的なプレー姿勢が基盤にあるからこそ、ギリギリの勝負場面でも、(ボールのないところで)考える前に身体が自然に反応するようになるのである。それもまた、世界と日本との間に横たわる「最後の僅差」の本質的な部分なのだ。(了)

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 フットボールネーション。個人主義が深く浸透しているからこそ、組織のカゲに隠れるなどといった消極的な意識や、連帯責任といった発想も希薄。そこでは、とことん個の責任が追及されるのです。だからこそ・・

 だからこそフットボールネーションの選手は、極限までリスクにチャレンジしながら(最大の自己主張を繰り返しながら)ミスを少なくしようと務めるわけです。もちろんそれには、「ミスは当たり前・・結果としてミスになるようなプレーをしなければ目立たないしやり甲斐がない・・」という考え方がベースになっていることは言うまでもありません。

 とはいっても、そこでも「バランス感覚」が大事なことに変わりはありません。そりゃ、そうだ。誰が考えても絶対に無理な状況なのに、「打っちゃえ!」と、無責任きわまりない馬鹿げたシュートにチャレンジしたり、馬鹿げたドリブル突破にチャレンジしたり。いましたよネ・・横浜フリューゲルスに、とにかくシュートを打つことだけが生き甲斐っちゅうブラジル選手が。ありゃ「ブーイング」ものでした。

 またフットボールネーションでは、ボールがないところでのプレー内容も、「ミス」の対象として明確に評価され、批判(注意)の対象になるという事実があります。だからこそ選手は、そんな(コーチの批判や仲間からの文句などといった)冷や汗の体感を積み重ねることで、ボールがないところでの決定的なディフェンスとか、ボールがないところでの(全力ダッシュでの)パスレシーブアクションなども、しっかりと意識するようになるというわけです。

 そんなコトもまた「サッカー文化」の重要な構成要素だということが言いたかった湯浅でした。ではまた明日。
 



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