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2006_ワールドカップ日記・・本物のストライカーというテーマ・・(東京新聞に2006年6月10日から7月10日まで隔日で連載したコラムから)・・(2006年7月14日、金曜日)

このテーマは、6月12日に行われた日本対オーストラリアからピックアップしたものです。シュートを打つという意志・・。

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 「エッ!? 何故シュートを打たないんだ!」。そのとき思わず声が出た。日本がリードする後半30分。高原が相手陣内でボールを奪い、そのままドリブルで突進した。シュートへの期待。ただ高原は、左にいる柳沢へパスを出してしまう。タイミングを失った柳沢は、弱々しいシュートを打つのが精一杯だった。あのシーンでの高原は、相手をなぎ倒してでも強引にシュートへいくべきだったのに。

 後半の日本は、そんな消極的な姿勢で、何度もカウンターのチャンスを潰していた。それに対してオーストラリアは、誰もがフィニッシュをイメージしてリスクにチャレンジしつづける。そして・・。

 攻撃の目的はシュートを打つことである。そのことと、実際にゴールを入れる決定力とはまったく違うテーマなのだ。自分もシュートできるが、パスを出して味方に打たせた方が可能性は高い。そんな状況でも、ストライカーだったら、とにかく「まず」自分がシュートするという強烈な意志を持つべきなのだ。

 それは、ある意味、エゴイストに徹するともいえる。このことについては、論理的な説明などない。もちろん失敗したら批判されるだろう。何故パスを出さなかったんだ! ただ本物のストライカーだったら、そんな批判を肥やしにして、シュートへの意志をより深化させるに違いない。そんな心理・精神的なプロセスを経てはじめて、「決定力」という魔物を制することが出来るのだ。それもまた、サッカー的なバランス感覚なのである。

 オーストラリアが次々とシュート決めるシーンに声を失いながら、ふと、そんなことを考えていた。(了)

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 オーストラリア戦、後半の日本は、カウンターからのチャンスを何度も作り出しては、例によって、「惜しかったな〜」と日本観客のため息をさそっていました。

 それに対してオーストラリア。どんなに可能性が低くても、とにかく彼等は、小さなチャンスに懸けて、ドリブルで持ち込んでチャレンジしたり、中距離でもどんどんシュートをかましてくるのですよ。もちろん一点日本にリードされているということもあったけれど、それ以上に、シュートを打つことに対する意識(責任感!?)の高さを実感したものです。

 シュートを打つというテーマと、それをしっかりと決めるというテーマは別物です。

 攻撃の目的はシュートを打つこと。そこに至るプロセスは無限だけれど、常に選手は、シュートを打つことだけではなく、そこで生じてくる個人の責任を(オレが責任を取ってやるという前向き姿勢=強烈なエゴイストの自己主張を)しっかりと意識していなければなりません。もし責任回避(無限責任=無責任)姿勢がちょっとでも感じられるのなら、その選手はストライカー失格なのです。

 それに対して、シュートを決めるという現象には、シュートを打つというプレー以上に「イメージング力」が求められます。確実にシュートを決めるという意識。フットボールネーションでは、シュートを決める「感覚」を、冷血動物のようにという表現をすることがあります。興奮することなく、あくまでも冷静に(もっと言えば、本能的に!?)ゴールを仕留めるのです。

 ストライカーは、そのレベルに至るまで、実質的なシュートトレーニングとイメージトレーニングを積み重ねなければならない。そう、「本能的」にシュートを打てるようになるまで・・。

 そこが、血のにじむような「反復練習」を繰り返すフットボールネーションのユース年代選手と、才能に恵まれているからこそ「甘えの構造」に陥ってしまう(!?)日本の若い選手との根本的な違いかもしれません。
 



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