The 対談


2006_ワールドカップ日記(The 対談)・・哲学者、小林敏明さんとの対話(その2)・・(2006年7月8日、土曜日)

さて、小林さんとの対話。「昨日のコラム」の続編です。まず、日本人とサッカーというテーマ。

 「日本代表だけれど、今回、どうも彼らのプレーからはオーラが感じられなかった。特に、身体をぶつけ合う競り合いのシーンで、日本選手は、これはかなわないと感じていたに違いないと思ったね。競り合いのときに互いが発するオーラって、気合いとか、心理パワーとか呼ばれるものなんだろうけれど、明らかに日本選手の方が弱かったからな。オーストラリアとのゲームなんて、その典型だったでしょ」。

 「そのオーラって、具体的にいったら、例えばどんなところから感じられるんだろうか?」。そんな私の質問に、小林さんは、「例えば、表情とか、身体をぶつけるときの勢いとか、そんなところに差が見えたんだ。気合い負けっていうかな。まあ、はっきりいって、いまの日本社会は恵まれ過ぎているということもあると思う。それに対してアフリカの選手たちはハングリーだろうからね。本物のハングリーと隣り合わせのハングリーとでも言うのかな。南米だって、ハングリーさでは日本の上をいっているに違いないし・・」。

 「例えばそれには、様々な意味のギリギリの経験も関係してくると思うのだけれど」。そんな私のアプローチに、大きく頷いた小林さんは、「そうそう。極端にいったら、死にも匹敵するくらいの窮地に追い詰められた体験がそうだ。そんなサバイバル体感を通して、闘うエネルギーが充実していくということなんだよ。中田英寿にもそれが感じられるし、川口にしても、外国へ行って顔が変わった。彼らはそこで、ハングリーな連中との身を削る競争のなかで、何度もギリギリの経験をしたに違いない・・」と、言葉をつないでいくのです。

 「敵と対峙したときに生まれてくるエネルギーがあると思う。そのエネルギーレベルは、本当のサバイバルを体感した者ほど強いことは自明の理だよね。そんな選手たちは、ギリギリの競り合いでも決してビビらないだろうし、そこで、持てるエネルギーを最後の最後まで放散できると思う。空威張りではない、自分自身の実際のサバイバル体感をベースにしたエネルギーの放散っていうことだよ。そんな気合いは、はっきりと顔に出るし、相手も敏感に感じるはず。そんな、本物の闘いという視点で、日本選手たちの顔つきは、残念ながら、もう一つ活きていなかったと思ったよ。まあ、中田英寿は違ったけれどね」。

 「ところで日本だけれど、闘うエネルギーが充実しない理由をどのように説明できるだろうか?」

 「一言でいうと、日本のサッカーでは、プレー中の選手たちが責任を転嫁したり責任を回避する傾向が強いように見えるということかな。昔、政治学者の丸山真男という人が、戦時中の日本社会を振り返って、『無限責任=無責任』という表現を使ったことがあるんだけれど、日本のサッカーを観ていて、まさにそれが当てはまると思った。自分の責任をずらしていく。ずらされてきた責任を次の人もずらす。そして結局、誰も責任を取らないということになってしまうというわけだ。それは、日本の体質かもしれない。日本のサッカー界には、そんな体質を克服していってもらいたいね」。

 その言葉を聞いて、まさにその通りだと相づちを打っていた湯浅でした。

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 さて最後のテーマ。サッカー(ワールドカップ)とナショナリズム。今大会でそのテーマが浮上したのは、ドイツ代表の成長にともなって、国中から沸き上がった希望というスピリチュアルエネルギーの放散があったからです。それを象徴していたのが、クルマに取り付けられたり、家の窓に掲げられる国旗。さて、小林さんは、その現象をどのように考えているのか。

 「旗についてだけれど、それがナショナリズムの高まりを象徴する現象だという考え方には賛同できない。もちろん心配はあったけれど、今回は、左翼やメデイアからも、ほとんど批判が出てこなかったね。ドイツでは珍しいことだ。普通だったら、この国では、ナショナリスティックな言動は、常に批判の対象になるはずだからね。今回は、『私は単にドイツチームを応援します』とか、要するに『私はサッカーファンです』といったメッセージだと理解されたということなんだろうね」。純粋サッカー的な話題から離れたこともあって、徐々に哲学者然とした表情に戻ってしゃべりはじめる小林敏明さんなのであります。

 「ナショナリズムは、政治が絡んだときに使われる表現だから、今回の現象にはそぐわないような気がする。観客はゲームに陶酔していたのであって、そこで国家主義的な感覚をもっていたわけじゃない。ドイツの試合中にこんなこともあったよ。試合中にドイツ国歌を歌いはじめたグループがいたんだけれど、結局は大きな合唱にならずにしぼんでしまった。要するに白けちゃうのね。例えば、エキサイトしている日本チームの試合中に『君が代』を歌いはじめたら、どう思う? 観客は、自分たち応援するチームが良いサッカーで勝ってくれることを期待し、そのために、彼らを心から応援しているということ。だから、今回町中で目立っている国旗も、どちらかといったら、ドイツ代表チームの単なる応援フラッグという印象だね」。

 「たしかにドイツにはファシズムの過去がある。ナショナリズムが危険なのは、特にそれが政治的な暴力と結びつくときだよね。例えば、国歌を歌うという行為のなかに攻撃性が集約し、それが集団暴力につながるとしたら大変なわけだ。とはいっても、暴力衝動は絶対になくならない。攻撃性は、人間の本性の一部だから」。小林さんの『講義』は止まりません。神妙に耳を傾ける湯浅なのです。

 「それでは、人間の攻撃性をどのように処理するのか・・。そこでスポーツが担う役割は本当に大きいと思うんだ。スポーツの政治的な貢献とでもいうのかな。サッカーには、人間の攻撃性エネルギーを、うまく昇華するだけの本質が備わっているということだと思う」。サッカーの話題に入っていったので、またまた小林さんの目つきが変わりはじめる。「熱」を放散する小林さん。それを体感しながら、サッカーが内包するパワーを再認識していた湯浅なのです。

 「もっと言えば、本当に優れた、魅力的なゲームは、ナショナリスティックな欲望も霧散させてしまうと思っているんだ。それに、観ている全員が陶酔するということかな。そこでは、『ナショナル』な差異が超越される。言葉を換えるならば、サッカーが、ナショナリズムのネガティブなエネルギーを『昇華する』ということかもしれない」。小林さんの口調が最高潮に達している。

 「その意味で、ドイツとイタリアが展開した素晴らしいサッカーには、まさに『消化ゲーム』ならぬ、『昇華ゲーム』という表現が当てはまると思う。もしこのゲームのレベルが低く、ナショナリスティックな要素を超越できなかったら、試合後に、様々なカタチの暴力が吹き荒れたはずだよ。でも、この試合の後には、ほんの一部を除いて、バイオレンスのエネルギーは膨張しなかった。涙を流しながらも、みんなドイツの試合振りに満足していたと思う。それこそが、サッカーが人々に与える希望ということなんだろうね」。

 哲学者、小林敏明さんについては、前日のコラムを参照してください。尚、このコラムは、後で「The 対談」シリーズに編入します。
 



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